確かにおっしゃるように、ユニバーサルデザインの考え方で道路を用意すればいいというのは、抽象的すぎて分かりづらいと思う。今までのまちづくりではユーザーニーズと言ってきましたが、どうもデマンズなのではないか。要望がどんなにあるのかということに切り替えたほうがいいのではないか。そして苦情を宝物にしよう。苦情が出なくなったら解決されたということだから、苦情は宝物にする。そういったことから、もう一回組み換えていこうということをやっているケースが愛知県にあります
ユニバーサルデザインはアメリカから来たものですから、はっきり言って、そんなに簡単に理解できるものではありません。それに都市づくりとなると、相当なお金を動かさなければいけない。そうすると次に見学会となります。そこで、たとえばわれわれが取り上げてきた駅とか道路を見ます。そうすると何だか知らないけど、目立ちすぎる。車椅子のマーク、これ見よがしの駅のスロープ、昇降機屋さんが儲かるようなエスカレーターなど、とにかく「やった」という印象がないと、どうもいけないみたいです。
湯谷の駅に取り組んだ際には、全部は見えないという答えにしたんです。ユニバーサルデザインなんてそんなにカッコよく見えなくてもいい。中川さんがおっしゃったように、バリアフリーこそデマンズだったわけです。だからこれを生かしていけばいい。
もう一つ、デザインの理論としてのユニバーサルという問題は、考え方に名前がついただけで、意識としてはもともとあったわけです。また文化論に置き換えたとしても、ユニバーサルなデザインはデザインに根本的に要求される要素ですから、使いにくいデザインがいいデザインということは、そもそもない。だからユニバーサルデザインの実践に取り組むために、ガイドラインのようなものとか、地道で基礎的な研究をわれわれは出していかなければいけないのではないか。
教育という問題を取りあげてみても、高齢社会は目前ですから大学でユニバーサルデザインを理解できるデザイナーを早急に養成しなければいけない。それに対して生涯教育もあれば、幼児教育もあるわけですから、教育を大きく捉えて、いますぐにやらなければいけないこともあるし、忘れてきたもの、置いてきたものを思い起こしたり、引っぱり出してこなければいけないこともある。われわれものをつくる人間は聖域にいるわけではありませんから、われわれにはいったい何ができるのかなと感じています。
ないもの探しはやめて、あるもの探しでいかないと間に合わないのではないかという危機感を感じますね。グローバル化、情報化、高齢化とが一気に押し寄せてくるわけです。企業はどうかといえば、採算がとれなければ活動はできない。そういう現実問題と切り離して、デザインとか、ユニバーサルとか言っていていいのかという気がしないでもないですね。だから日本的なるものをもう一度しっかりとつくりあげるときかなという気がしますね。