川崎和男 対談バックナンバー

KAZUO'S VOICE
 

川崎: 僕は今年54歳になります。だから、もう断言できる年齢ですから言いますと、20代、30代のときには、自分は才能があるのだろうか、あこがれている人の仕事に比べて、自分はまだその水準にいたっていない、自分のデザインはまだ足りないという苦悩が連続するじゃないですか。現在では、20代、30代は貯金をしている時期ではないかと思うんです。それがたまってバンと動き出したときに、メーカーのトップの方と出会い、ある領域をまかされて、才能が開花する。タイミングを含めて、それは運だともいえますが、出会いというのは、その人の才能の磁力線のようなものが引き付けるのだというのが僕の持論になっています。

このような統合的に取り組みには経営者の理解もさることながら、その信頼関係も重要になってきますね。この企業との出会いはどのようにスタートしていったのですか。
   
平野: 1996年に八幡ねじの鈴木建吾社長と西里久一部長が私に会いに来てくださったのが始まりです。

最初の依頼は、会社のマークをつくってください、ロゴをつくってくださいということではなく、「デザインをどうしていったらいいですか」ということでした。興味深かったのは、鈴木社長は、最初に私をグラフィックデザイナーと確定していなかったのです。また、私をデザインコンサルタントとして捉えて下さいました。ロゴマークを考えるのはもちろん、CI計画、パッケージ、ウェブサイト、カタログ、ディスプレイなど、すべてをやることがデザイナーである。デザイナーはそういう存在であるという認識から出発しています。そういう土壌があったので、私のデザインのスタンスと非常に馴染みました。ただ、そのベースとなるものは一切なかった。だから、まず旗印としてのCIをやりましょうというところからスタートしています。この導入のときには、一般的に社名をカタカナや英語の名前に変えてしまいますが、日本の会社だからこそ“八幡ねじ”というネーミングを大切にしましょうと、提案させていただきました。八幡ねじの魅力の一つに、流通が非常に洗練されていることがあげられます。5万点ぐらいの種類をコンピュータで管理していて、受注翌日には出荷できる高度な流通システムを確立している。ですから、パッケージデザインも流通に乗らないと機能しない。パッケージ一つつくるのでも、コンピュータで管理できること、全国のホームセンターの棚にきちんと納まること、そういうことを総合的に検討してできていったという過程があります。といっても、このデザインは、一気につくりあげたのではなく、シンボルマーク、企業内のCIデザインから始めて、さまざまなものを段階的につくっていきました。こういう性格のデザインは、企業に提供してから定着するまでに時間がかかりますからね。トップの方がいいと思ってくださっても、それが社員の方々に浸透するまでには時間が必要です。1996年から開始して徐々に範囲を広げ、一方でその効果が現れてくる様子をうかがいながら、じっくりと取り組んできたわけです。こうした仕事は、広告代理店が中に入るのがふつうですが、私は広告代理店との仕事はあまりやらないのです。そういうことがあって、八幡ねじの方々と直接対話しながら進めさせていただいたのが非常に良かったと思いますし、全体を私がやらせていただいているから、中心がぶれないのだと思います。その根底には、鈴木社長と西里部長の大きな信頼があったからなのです。
   
川崎: 社長さんの度量も大したものだと思いますね。平野さんくらいの年代で、そういう社長さんと巡り会えるというのは非常にうらやましいことですよ。サイトウマコト氏がしょっちゅう憤慨しているのは、「俺はポスター作家じゃない。企業全体を表現しているんだ」ということです。いまでは、彼は建築もやれば、プロダクトデザインも自分がやりたいという。さすがに、本当にコンピュータのデザインを請け負ってしまうと、「おい、川崎手伝え」という話もしてきます。彼も私も、すでに経験的には、それぞれの専門の役割分担から突破して、デザインは何でもできますよということを戦略的に組み立てていかないと、なかなかわかってもらえない。僕はインダストリアルデザイナーだから、そのパッケージに口出しをすると、「川崎さんは製品だけやっていてください」と言われる。それを取り除いて、コマーシャルまで口出しをする、あるいはパッケージまで口出しをするようになるまでは、ある種の闘いでした。ですから、デザインというのは、八幡ねじの社長さんの捉え方が正しいと思うんです。

一般にたかがねじという通念があると思いますが、ねじは人類が生み出した5大器械の中の一つなんですね。ギリシアのヘロンの時代に、人類が人工物をつくっていく基本要素としてつくったものですが、産業革命を経て爆発的に普及し、いまの時代になってみれば、これがなければ社会も生活も成り立たないという重要なものとなりました。今ではその種類も莫大なものになっている。八幡ねじさんでも5万アイテムという、その莫大な種類をどうやって統合し、それによって有用性を生み出していくか、この部分ひとつを取り上げても非常に難しい課題であったと思います。それを見事に解決し、それこそインテリアとして飾っておきたいと思わせるほどの水準にまで、デザインの造形が昇華されているとさえ感じます。
   
平野: ねじはある意味で日本の近代化の根本を支えてきた部品ですし、現在でもその重要性は変わらないはずだと思っています。八幡ねじの仕事をしていく上では、常にこのことを意識しています。歴史を振り返ると、日本がねじと出会うのは16世紀まで遡ります。1543年、ポルトガル船が種子島に漂着したときに、積み荷の鉄砲を、種子島の島主の種子島時堯が二千両で買い取り、それと同じものを八板金兵衛清定という人につくらせます。八板金兵衛清定は生涯をかけて鉄砲をつくるのですが、そのときに一番わからなかったのがねじの技術だそうです。ねじを切るという技術が当時の日本にはなかったわけです。その技術を習得するために、若狭という自分の娘をポルトガル人に嫁がせたという話まであります。時代は下って、幕末に勝海舟と小栗上野之介がアメリカ視察に行きました。そこでアメリカの工業化社会を見て、機械がユニットでつくられていることを知るわけです。そのときに小栗上野之介がびっくりしたのがねじでした。ねじがものとものをつなぎとめて、形をつくっていくことに驚いて、ねじを握りしめて帰ってきたと伝えられています。 これらをスタート地点に、ねじは日本の近代化や高度成長を支えていくわけです。現在では、それが何万という種類があって、携帯電話やコンピュータ、車、建築…、ありとあらゆるところに多種多様なねじが使われるようになりました。しかし、あまりにもあたりまえに存在するがゆえに、全く無視されているといってもいい。重要な役目を果たしているのにも関わらず、また、これだけ日本社会が情報化しているのにも関わらず、一般の人はほとんどねじのことを知らない。これは、ねじの専門企業の八幡ねじにとって好ましくないわけです。この辺りのことは八幡ねじの企業デザインの核となり、訴求する基本であると考えました。ねじ一つひとつは小さな部品かもしれませんが、プロダクトデザインの見地からもその機能美は素晴らしいものだと思いますし、歴史的な背景もあるし、命すら持っていると思うようになりました。私は商品自体に強く惹かれてしまったわけです。そこで、締結部品専門企業のデザインをやらせていただくのはすごくうれしかったのです。
   
川崎: ねじは工業製品というより、日常生活品と呼んだほうが相応しいかもしれないですね。みんなが空気のような存在だと思っていますが、特定の用途に特化した専用のねじがあったり、汎用的にどんなところでも留まるねじがあったりして、ありとあらゆるところで重要な役割を果たしている。

僕はデザイナーになって以来、機械工学ハンドブックをつねに手元に置いていますが、その内容の順番は決まっています。第1章の最初がねじなんですね。プロダクトデザイン的にも、薄いものをつくりたいという時に、中身の実装での部品の留め方にはいろいろありますが、やはり一番信頼できるファスナーになるのはねじですね。だから、常に注目するようにしています。ギリシア時代にねじが生まれて、ボンベイの遺跡から発掘されて復元されたものを見ても、当初は木でできていましたが、ねじそのものの機能性を非常にうまく使っている。それを見ると、なるほど人類が生み出した5大器械の一つなんだなと感心します。機械工学ハンドブックがねじから始まることからしても、モノづくりのきわめて基本的な要素であり、それだけにデザインとのかかわりも深いと言えます。

デザインは先端的な領域と結びついてやっていくことも必要ですが、一方、基本的なものを押さえていくことも非常に重要です。最近も、自分のふるさとの武生ナイフビレッジに行って、そこで昔の刃物、まだ復元できないものについて、職人さんたちと話をしてきました。僕は武生で、一方では先進的なデザインをやり、一方ではこのような基本的なデザインを研究しているものだから、ねじのような基本的な領域にデザイナーが絡んでくれたことが本当にうれしいんです。その成果を眺めていると、平野さんの意見そのものが、基本技術であるねじを進化させたりという可能性もありうると感じます。
そうした可能性をはっきりと認識できたからこそ、今回、新賞新設で、即決できたと思います。
日本商工会議所会頭賞は2002年に新設された賞です。それに該当するものは何だというときに、デザインマネージメントというとらえ方と、日本商工会議所というビジネスのビューローが、これぞデザインだと見せてくれる会頭賞ならば、これしかありませんというのが、八幡ねじ、平野さんのトータルデザインでした。

この受賞は、八幡ねじさんの内部ではどのように受け止められているのでしょうか。
   
平野: 八幡ねじは一般小売り部門とメーカーに卸している部門と二つの流れがあります。他の製造業などに、締結部品を納めていますし、ホームセンターなど、一般の人が買うようなねじも扱っています。その二つの大きな柱があります。ホームセンターで売っているほうは、全国の70%のお店に入っていますし、社長はいま世界への進出を考えられていて、タイと中国に工場を設立し、世界的に部品調達できる体制をつくられています。ですから、今回Gマークをいただくのは私たちの大きな目標でしたが、Gマークをいただくことによって、もっとよくならなければいけないという企業姿勢が現れてきたように思います。その意味で、今回いただいたGマークは本当に意味が大きいのです。単に商品についたということだけではなく、会社全体に、もっとがんばらなければいけないという雰囲気が生まれてきました。
   
川崎: 主催者側としては、それが一番うれしいことです。いま企業は元気がなくて、力を失っています。オーナー社長がいて、確固たる理念や哲学を持って、哲学を持ったデザイナーと出会い、お互いの対話の中から新しいことをつくりあげて企業を活性化させていく。そうした姿が具体的に見えてくると、元気のないところに、八幡ねじさんのデザインマネージメントシステムを見てくださいと言えます。これはGマークでも評価されているし、日本人全体がグッドデザインだと言っているわけです。だから、僕は、グッドデザインとは何かではなく、Gマークが付いたものがグッドデザインなのだ、これを見てグッドデザインだと認識を新たにしてほしいと言っています。

小林秀雄の生誕100年なので最近好んで使っていますが、小林秀雄は「美しい「花」がある、「花」の美しさというようなものはない」と言っています。若いときはその意味が全くわからなかったのですが、いまはなんとかわかるようになったと思っています。八幡ねじさんのねじはたぶん美しい。それは何かといったら、美しいねじはある、しかしねじの美しさはない。ねじの美しさがないところに、デザインがかかわると美しいねじになる。そのことが今回初めて見せてもらえたわけです。これで基本要素でいうと、ばね、鋲螺、ファスナーなど、部品産業の核たるところが世界に向かってやっていこうとしたときに、平野さんのようなデザインディレクターの存在が大きな意味を持ってくるでしょうね。

僕は2003年度で審査委員長の任期が終わります。Gマーク事業の民営化後、2代目の委員長なのすが、一方ではデザイン領域の拡大をして、テレビ番組にGマークを与えるということもやってきました。しかし他方、細かな部分にまで目を配って評価するということでは、軽自動車に金賞を与えたことで、ここまで見てくれたんだと軽自動車業界の人たちが非常に喜んでいただけたということがある。2001年度にはヤマハ発動機のプールに金賞を贈ってているし、日本の基礎産業にも目を行き届かせたと一応は自負しています。これは僕がいたからではなく、審査委員団たち、全員の見識があったからこそ、実現できたんだと評価しています。受賞されたところから、こういう領域にまでGマークは目が届いているんだと言っていただけるのは、Gマーク制度に携わる人間としては非常に喜ばしいことです。

賞を与える、賞をもらう、一つのGマークのやりとりで、与える側ともらう側に上下関係があるように思われますが、僕はそれは対等であると思っています。それこそインタラクションであって、受賞された方から、この業界に目を向けていただいたことがこれだけ効果があるんですよと言っていただけることで、改めて僕らはGマーク制度はこういうものでなければいけないと教えられる。それによって、僕らはもっと目を行き届かせて、これぞグッドデザインなんですという領域を広げていかなければいけない。そうすれば、デザインという職業がないと本当に豊かな生活には結びつかない、ビジネスも絶対に成功しないという認識が広がり、デザインという職業がもっと信頼を受けることにも繋がっていくと思うんです。

平野さんは、美術館のサイン計画でも、2002年度のグッドデザイン賞を受賞されていますね。これについて少しお話いただけますか。
   
平野: 私は日本の中でデザインの手の及んでいないところで仕事をやっていきたいという思いを持っています。たとえば、豊田市美術館でもう一つのGマークをいただいていますが、ここではポスターを制作するということではなく、学芸員の人たちとコミュニケーションを取って、美術館の建築と美術作品、それをつなぐコミュニケーションとしてのデザインを、美術館のポリシーとしてやっていきたいと考えています。外国の美術館などでは、作品のプレートも非常にきれいにつくってありますが、日本では学芸員がワープロ打ちしたものが貼ってあることが多い。美術館を総合的に捉える一方、そういう細部にもきちんと目をくばり、美術館として完成度の高いものにしていきたいと思います。
   
川崎: 僕は近くにいるわりに豊田市美術館にはあまり行っていないんですが、あそこの企画展は毎回非常にいいところをやられます。豊田市美術館の館長、寺光彦さんはデザイナー出身ですよね。実は名古屋市立大学が新設されるときに、僕をここに座らせてしまった人なんです。金沢美術工芸大学の大先輩ですが、教育者で、私立の美術大学の学長も務められた方です。そういう人に出会うというのはすごいね。どういうクライアントに出会うかで、デザイナーは、仕事ぶり、やりがいが決まってしまうところがありますからね。
   
平野: これは私が意識していることではなく、自然にそういう出会いがあるのです。でも、これだけは言えるんです。八幡ねじが96年のときはどうだったかというと、きっと一般のデザイナーは見向きもしなかったと思います。つまり、デザインと呼べる要素が何もなかった。アメリカのポール・ランドというデザイナーは、全く無名のIBMという企業でCIのデザインシステムを完成させ、やがてIBMは世界的な企業に成長していく契機になったという事例があります。ほかにもデザイナーがかかわることによって、その企業や施設が伸びていくという事例はありますが、それは結果的にということではなく、あらかじめ自分の中でビジョンとしてきちんと描けるかどうかが重要だと思います。以前私は、大企業の広告を手掛けていた時期もありますが、自分がいくらエネルギーを投じても、本体からの手応えがないという印象があった。それは歯車の一つになっているような気分です。これとは正反対なのが八幡ねじとの仕事でした。どこから手をつけたらよいものかという感じでしたが、私はそこに魅力を感じることができましたし、こうした仕事に関われたことに幸せを感じます。
   
川崎: それは非常にいい話ですね。ぜひ、若いデザイナーを目指している人たちに聞かせたいですね。僕はいま大学で教えていますが、学生たちはみんなデザインオリエンテッドに見える企業にあこがれる。僕はそれはまったく違うと言っています。名もない企業、まだデザインのデの字もないようなところに飛び込んで行けと言いますが、みんなテレビコマーシャルをやっている企業に目が向いてしまう。いつかは有名なデザイナーになりたいという思いがあるはずなのに、いまから有名なところと仕事をしてみたいと言う。しかし、そうではないんですね。

若い無名のときに出会った仕事を大事にしていく。そうするうちに、そこにスポットライトが集まって、一躍時の人みたいになりますが、それは長続きしません。さらに、スポットを浴びている時に名のあるデザイン賞を取ってしまったりすると、それ以後、仕事が来なくなるという冗談のような話もある。それはデザイン料が高いんじゃないかと思われてしまうんです。そこから先、また地道さが必要になります。地道という道がきちんとある。たとえば、バブルのときに有名になって、わっと仕事が飛び込んできていた人たちが、バブル後、みんな消えてしまったわけです。それを考えると、地道さのところできちんとした仕事を続けて、ときどきスポットライトを浴びに出かけていくというデザイナーが、一番いい仕事をしているように思います。

それが若い人たちにはなかなかわからない。自分の足で探して、有名ではないけれど、技術がいいところで、デザインがないところ、そこの社長さんをくどいて、全部自分に任せてくれませんかという話で飛び込んでいったほうがよっぽどおもしろいし、ためになるはずですし、将来のためなんです。

僕も無名の時代はありました。でも、その無名の時代に情熱を燃やして、その仕事に必死に取り組むことが重要だと考えています。若いころ、仕事がない時代が1年半ぐらいあって、しかも田舎にいたんです。そこで武生ナイフビレッジの連中たちと出会いました。もう25年来のつきあいになりますね。その連中が活動を始めて3年、僕が2年ぐらい加わって武生ナイフビレッジができて、それから10年たって本格的な建物ができあがって、今日に至っているわけです。今年、25周年展をやろうかという話もしています。こういうつきあいというのは、かけがえのないものですよね。こういう原点のようなことがあるからこそ、僕はデザインの仕事をしていて、どんなに仕事がなくなったとしても、あそこに戻ればまた何かできるという思いがあります。また、こういう立場になると、デザイン界をひっくるめて辛いことだらけです。そういうときでも、あそこに戻れば、またフレッシュな自分になって戻ってこれるという場所でもある。

平野さんにとっては、八幡ねじさんとの出会いは、これからの仕事の原点になるのではないかという気がします。
   
平野: 原点という意味で、私がお世話になった恩師の猪熊弦一郎先生の壁画が名古屋の駅にあります。名鉄ビルは明治村をつくられた谷口吉郎先生が設計されたのですが、そのビルのバス乗り場にかかっている古い壁画がそうです。その壁画があるから、私は名古屋に縁を戴いたのではないかと強く思っています。八幡ねじもそうですし、豊田市美術館にしてもそうです。その意味で、私の恩師である猪熊先生が導いてくださったこの場所が原点なのかなと思います。
   
川崎: デザインというのは最終的には美しい形、美しい企業をつくりだすことを目標としている。美しい企業だからこそ美しいものができるし、美しい企業で働いている人は生き生きできる。そういうものをグッドデザインだと認証していくことを審査委員はやっているんです。だから、何がグッドデザインであるという定義の話ではなく、これがグッドデザインなんですと言ったときに、それがわかってもらえたら最高だと考えています。八幡ねじには美しいねじがあるということを平野さんに語っていただきましたが、それはGマーク制度にとっても良いものを選んだなとほっとすると同時に、去年の審査は、それなりに辛いことがいっぱいあったけれども、それを忘れることができますね。
   
平野: 昨年のグッドデザイン賞の表彰式のときに、鈴木社長が登壇してくださったのですが、社長も本当にうれしかったと思います。特に日本商工会議所会頭賞は八幡ねじが第一号です。こんな名誉なことはありません。ですから、社長は大変に喜んで下さいました。私自身も本当にうれしかったし、八幡ねじの社員の方々も喜んでいます。これを励みに社員の方々も、より生き甲斐を持って、いい仕事ができるのではないかと思います。
   
川崎: 僕もこれまで中小企業庁長官賞にかかわったことが何度かありますが、これを受賞すると経営者に本当に喜ばれますね。その姿を見ていると考えさせられます。受賞を単純明快に、子供のごとく素直に喜ぶというのは、その受賞商品にそれだけ熱意を注いでいるからでしょう。これは非常に重要なことだと思いますし、喜びをちゃんと表せないというのは、美しいものをつくれない原因だとすら思います。僕はGマークを企業を励ます賞だと言い続けているので、受賞を喜んでいただきたいし、それを糧にがんばってもらいたいんです。それが実現できると、審査委員長としては非常にうれしい。今年1年、思い切ったことをやって、より多くの笑顔にお会いできるよう頑張りたいと思います。
本日はお忙しい中、ありがとうございました。
   
  (2003年2月10日 名古屋市立大学芸術工学部にて収録)
   
●平野 湟太郎
平野湟太郎デザイン研究室 代表取締役

●川崎 和男
名古屋市立大学大学院 芸術工学研究科 教授
大阪大学大学院 阪大フロティア研究機構 特任教授
2002年度グッドデザイン賞 審査委員長
   
株式会社八幡ねじのHP:
http://www.yht.co.jp

「八幡ねじのデザインマネージメント」の紹介:
http://www.g-mark.org/search/Detail?id=28301&winners=2002

名古屋市立大学大学院 芸術工学研究科 川崎和男研究室のHP:
http://www.kz-design.net/